こんにちは。
たまごっち、というおもちゃが誕生して、はや20年も経つそうですが、うちにもいくつかあったなあ!
というわけで20周年モデルがバンダイさんから登場するとのことなのですが、
tamagotchi m!x の特設サイト
http://tamagotch.channel.or.jp/tamagotchi/
今回のたまごっちの仕様が、なんとも凄いんです!!
どんな風にすごいのかと言うと、そりゃもう「名字まにあ」的には、まず第一の機能がこれ!
<すごいところ1>
20世代までの家系図が見られる!!
私のおうちの家系図すら見られないのに、たまごっちの家系図が見られるというのが凄いです。
というのも、今回のたまごっちは、MIXというだけあって、2つのキャラクターの遺伝子を引き継いだ
「こども」
が作れてゆくのだそうです。
うーん、まさに家系ができていく感じ(^^
さらに、友達のたまごっちとの間にこどもを作るという恐ろしいのかすばらしいのかわからない機能がついて、
まさに婚活!そして妊活
がたまごっちの中で起きてしまうというすごさ!
<すごいところ2>
復活?!たまごっちが死ぬ機能。
そして、今回の新しい試みは、物議をかもした「死ぬ」機能が復活するところ。
一時期のたまごっちは「死なない」仕様だったようですが、今回は「死ぬ」ことがあるそうです。
そして、その理由がすごい!
「何代も続いた家系が、絶滅することがあることを表現」
しているのだそうです。
ひええええ!!!重い、重すぎるわ!!!
名字まにあ、な私も、身につまされてしまうそうな、
家系断絶
までやってのける新たまごっちは、本当にすごいです。はあ・・・。やっぱり少子化をとめなきゃね。
2016年6月10日金曜日
2016年6月4日土曜日
真田丸と小保方さん! 解決篇 〜小保方さんは真田さんと協力関係にあった?!〜
前回、ふと気づいてしまっただけなのに、とても反響が大きくてビックリしてしまった
「真田丸原作に小保方さんが出てくる件」
http://myoujimania.blogspot.jp/2016/06/blog-post.html
(月曜から夜更かし風に(^^))
ですが、解決の糸口が。
武田研究の歴史学者、丸島和洋さんからツイートで
https://twitter.com/kazumaru_cf/status/737951471694553089?lang=ja
”沼田城付近に下川田という場所があり(砦があった模様)、そこの有力者(土豪クラス)のひとりが小保方氏です。信幸が行った天正・文禄の検地帳が残ってまして、そこに頻出します。なお、文禄検地は矢沢頼綱最後の仕事でした。”
という重要な情報をいただきました!
検地帳というのは、年貢の土地台帳みたいなもので、ようするにその土地が「どれくらいの収穫があるのか」「誰のものか」などを記録するためのものです。
沼田城は、戦国時代には矢澤のおっちゃんが支配していて、その後色々あって、後に大泉兄ちゃんのものになるわけですが、
小保方一族は、この辺りに住んでいて、禰津氏の家臣になっていた。
ということがわかったわけですね。
なので、禰津氏も矢澤氏も真田氏と協力関係にありましたので、小保方氏も真田方ということになっていたわけです。
ぜひ!大河ドラマ真田丸にも、小保方という家臣が出てくればいいなあ!と思います(^^
だって史実なんだからいいじゃないですか。
\\\\\\\\\\
さてさて、でも、真田氏の家臣筋になっているこの小保方さんが、あの小保方さんとどうつながってくるか、ということはやっぱり地理的な状況を確認しておかなくてはいけません。
沼田城は、現在の群馬県沼田市にあり、この地域は旧名では
「上野国利根郡沼田」
という地域に当たります。
一方、小保方姓の発祥である群馬県伊勢崎市の東小保方/西小保方は
「 上野国佐位郡東小保方村・西小保方村」
という地域でした。
というわけで、この二つの地域は、
沼田
渋川
前橋
高崎 伊勢崎
みたいな位置関係で、30Kmぐらいしか離れていません。
おそらく戦国時代には、伊勢崎から北上して沼田で活躍していた小保方一族がおり、矢澤氏や禰津氏の支配下について真田氏とも協力していたのかもしれませんね!
さて、その小保方一族、そのルーツは
「毛野氏から出た上毛野朝臣末裔」
とされていて、小保方以前は
「生形(うぶかた)」
という表記もあったようです。
もちろん、現在でも「生形(うぶかた)」さんという名字の方が、おなじ地方にたくさんおられます。
毛野氏は、第10第の崇神天皇の子供からつながる、という伝承を持っていて、「上毛野」「下毛野」氏に分かれますが、それがそのまま
「上野国」「下野国」
の名前の由来にもなってゆきます。 まさに、古代の群馬・栃木地方の支配者で、名族と言えますね。
ただ、実際には、中央から派遣された一族と、在地の地元豪族とが、ゆるやかにつながっていった氏族ではないか、とも考えられています。
さあ、これですっきり謎が解けました!(^^
「真田丸原作に小保方さんが出てくる件」
http://myoujimania.blogspot.jp/2016/06/blog-post.html
(月曜から夜更かし風に(^^))
ですが、解決の糸口が。
武田研究の歴史学者、丸島和洋さんからツイートで
https://twitter.com/kazumaru_cf/status/737951471694553089?lang=ja
”沼田城付近に下川田という場所があり(砦があった模様)、そこの有力者(土豪クラス)のひとりが小保方氏です。信幸が行った天正・文禄の検地帳が残ってまして、そこに頻出します。なお、文禄検地は矢沢頼綱最後の仕事でした。”
という重要な情報をいただきました!
検地帳というのは、年貢の土地台帳みたいなもので、ようするにその土地が「どれくらいの収穫があるのか」「誰のものか」などを記録するためのものです。
沼田城は、戦国時代には矢澤のおっちゃんが支配していて、その後色々あって、後に大泉兄ちゃんのものになるわけですが、
小保方一族は、この辺りに住んでいて、禰津氏の家臣になっていた。
ということがわかったわけですね。
なので、禰津氏も矢澤氏も真田氏と協力関係にありましたので、小保方氏も真田方ということになっていたわけです。
ぜひ!大河ドラマ真田丸にも、小保方という家臣が出てくればいいなあ!と思います(^^
だって史実なんだからいいじゃないですか。
\\\\\\\\\\
さてさて、でも、真田氏の家臣筋になっているこの小保方さんが、あの小保方さんとどうつながってくるか、ということはやっぱり地理的な状況を確認しておかなくてはいけません。
沼田城は、現在の群馬県沼田市にあり、この地域は旧名では
「上野国利根郡沼田」
という地域に当たります。
一方、小保方姓の発祥である群馬県伊勢崎市の東小保方/西小保方は
「 上野国佐位郡東小保方村・西小保方村」
という地域でした。
というわけで、この二つの地域は、
沼田
渋川
前橋
高崎 伊勢崎
みたいな位置関係で、30Kmぐらいしか離れていません。
おそらく戦国時代には、伊勢崎から北上して沼田で活躍していた小保方一族がおり、矢澤氏や禰津氏の支配下について真田氏とも協力していたのかもしれませんね!
さて、その小保方一族、そのルーツは
「毛野氏から出た上毛野朝臣末裔」
とされていて、小保方以前は
「生形(うぶかた)」
という表記もあったようです。
もちろん、現在でも「生形(うぶかた)」さんという名字の方が、おなじ地方にたくさんおられます。
毛野氏は、第10第の崇神天皇の子供からつながる、という伝承を持っていて、「上毛野」「下毛野」氏に分かれますが、それがそのまま
「上野国」「下野国」
の名前の由来にもなってゆきます。 まさに、古代の群馬・栃木地方の支配者で、名族と言えますね。
ただ、実際には、中央から派遣された一族と、在地の地元豪族とが、ゆるやかにつながっていった氏族ではないか、とも考えられています。
さあ、これですっきり謎が解けました!(^^
2016年6月1日水曜日
真田丸原作には「小保方」さんが出てくる?! 謎の「小保方」氏族を探せ!
こんにちは。
もう一つのブログのほうで、NHK大河ドラマの原作にあたる『加沢記』を読んでいたら、
(☆「歴史まにあ」http://jpn-history.blogspot.jp/ )
なんと、とっても珍しい名字のお侍さんに遭遇したので、調べ物好きなeineとしては、探求心がメラメラと燃えてきてしまいました。
さあ、どんな人の名前が出てきたのか?というと。
「小保方さん!!!!」
まあ、びっくりですね(^o^
小保方さんといえば、STAP細胞があるのかないのかで一世を風靡したあのリケジョの方が有名ですが、名字の世界では、なんと2000人くらいしかいないという
希少な名字のおかた
に属します。
小保方晴子さんがメディアに登場した頃の東スポさんの記事でも
激レア級?の「小保方姓」
http://www.tokyo-sports.co.jp/blogwriter-watanabe/14114/
というタイトルが付くくらい、基本的には珍しい姓なのだとか。
さて、この「小保方」姓。辞典類では、群馬県にルーツがあるとされています。
小保方・小保形などの表記はありますが、もともとは群馬県伊勢崎市東小保方町・西小保方町が語源で、戦国時代には、「小浦(甫)方」の表記もあったとか。
では、その群馬の小保方一族が、どうして真田丸に関係があるのか?!この謎を徹底解明しようと思いまする!
その戦国武将、小保方さんは、加沢記ではこんな風に登場します。
(出典 国立国会図書館デジタルコレクション 「加沢記」第61段)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020961
その名も
小保方半左衛門!!!
うーん。何者なのか、気になりますね!
私は、この後の「秀吉が仲裁に入って、北条と真田の領地の境を決める話」を読んでいて、小保方さんを見つけた(笑)のですが、↑ちょうどそれがココ。
小保方半左衛門が何者なのかは、もう少し前に丁寧な記述がありました。
ちょうどこの箇所の前の部分です。
ここをよく読んで見ると、こうありました。
”禰津の手の者小保方半左衛門、其の年二十九、血気盛りの若武者、茂手木を目がけて突っかかれば・・・”
状況を整理しますね。場面は、真田丸で言えば、沼田城に陣取っているおっちゃんこと、矢澤頼綱さんをまず思い出してください。
この人は、真田昌幸の叔父さんです。
で、沼田城を攻めてきたのが、由良信濃守や猪俣邦憲なわけですが、彼らは北条氏側だと思ってください。
(ついでに言えば、話に出てきた茂手木とは、茂手木弾正忠のことだと最初のほうに書いてあります)
一方、禰津というのは禰津幸直のことで、こちらは真田(矢澤)側です。
加沢記を全体を通して読んでいるとわかるのですが、
真田一族
矢澤のおっちゃん
出浦さま(はあと)
禰津さま
ぐらいの立ち位置です。大河には出てくるかよくわかりませんが。
そもそも、信濃には滋野氏という名族がいて、その一族が3つに分かれて「海野・望月・禰津」の3氏が滋野三氏と呼ばれています。
真田一族は、公式には、滋野嫡流とされた「海野氏」に系図をつなげていますが、実際には、禰津の氏族だった可能性が高く、なるほどこの話に禰津氏が登場するのも頷けます。
小保方さんは、禰津氏の家臣だったようですね!
しかし、信濃小県の狭いエリアの根津氏を想定すると、そこに群馬の小保方氏族がいるというのはちょっとハテナです。
なので、根津氏支流あるいは遠縁の小保方氏がいそうだなあ、と思うのですが、まだそこまで調べ切れていません。
ということで、このお話は研究を続けてみようと思います!!
今日はここまで(^^
追記:よく考えたら、沼田城って群馬だった!!!てへぺろ。
ということは、小保方一族のほうが、沼田の地元の氏族ってことか!
信濃からきた禰津氏の支配下に入ったって感じですね。
じゃあ、やっぱり小保方さんのご先祖一族ってことなの?!
もう一つのブログのほうで、NHK大河ドラマの原作にあたる『加沢記』を読んでいたら、
(☆「歴史まにあ」http://jpn-history.blogspot.jp/ )
なんと、とっても珍しい名字のお侍さんに遭遇したので、調べ物好きなeineとしては、探求心がメラメラと燃えてきてしまいました。
さあ、どんな人の名前が出てきたのか?というと。
「小保方さん!!!!」
まあ、びっくりですね(^o^
小保方さんといえば、STAP細胞があるのかないのかで一世を風靡したあのリケジョの方が有名ですが、名字の世界では、なんと2000人くらいしかいないという
希少な名字のおかた
に属します。
小保方晴子さんがメディアに登場した頃の東スポさんの記事でも
激レア級?の「小保方姓」
http://www.tokyo-sports.co.jp/blogwriter-watanabe/14114/
というタイトルが付くくらい、基本的には珍しい姓なのだとか。
さて、この「小保方」姓。辞典類では、群馬県にルーツがあるとされています。
小保方・小保形などの表記はありますが、もともとは群馬県伊勢崎市東小保方町・西小保方町が語源で、戦国時代には、「小浦(甫)方」の表記もあったとか。
では、その群馬の小保方一族が、どうして真田丸に関係があるのか?!この謎を徹底解明しようと思いまする!
その戦国武将、小保方さんは、加沢記ではこんな風に登場します。
(出典 国立国会図書館デジタルコレクション 「加沢記」第61段)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020961
その名も
小保方半左衛門!!!
うーん。何者なのか、気になりますね!
私は、この後の「秀吉が仲裁に入って、北条と真田の領地の境を決める話」を読んでいて、小保方さんを見つけた(笑)のですが、↑ちょうどそれがココ。
小保方半左衛門が何者なのかは、もう少し前に丁寧な記述がありました。
ちょうどこの箇所の前の部分です。
ここをよく読んで見ると、こうありました。
”禰津の手の者小保方半左衛門、其の年二十九、血気盛りの若武者、茂手木を目がけて突っかかれば・・・”
状況を整理しますね。場面は、真田丸で言えば、沼田城に陣取っているおっちゃんこと、矢澤頼綱さんをまず思い出してください。
この人は、真田昌幸の叔父さんです。
で、沼田城を攻めてきたのが、由良信濃守や猪俣邦憲なわけですが、彼らは北条氏側だと思ってください。
(ついでに言えば、話に出てきた茂手木とは、茂手木弾正忠のことだと最初のほうに書いてあります)
一方、禰津というのは禰津幸直のことで、こちらは真田(矢澤)側です。
加沢記を全体を通して読んでいるとわかるのですが、
真田一族
矢澤のおっちゃん
出浦さま(はあと)
禰津さま
ぐらいの立ち位置です。大河には出てくるかよくわかりませんが。
そもそも、信濃には滋野氏という名族がいて、その一族が3つに分かれて「海野・望月・禰津」の3氏が滋野三氏と呼ばれています。
真田一族は、公式には、滋野嫡流とされた「海野氏」に系図をつなげていますが、実際には、禰津の氏族だった可能性が高く、なるほどこの話に禰津氏が登場するのも頷けます。
小保方さんは、禰津氏の家臣だったようですね!
しかし、信濃小県の狭いエリアの根津氏を想定すると、そこに群馬の小保方氏族がいるというのはちょっとハテナです。
なので、根津氏支流あるいは遠縁の小保方氏がいそうだなあ、と思うのですが、まだそこまで調べ切れていません。
ということで、このお話は研究を続けてみようと思います!!
今日はここまで(^^
追記:よく考えたら、沼田城って群馬だった!!!てへぺろ。
ということは、小保方一族のほうが、沼田の地元の氏族ってことか!
信濃からきた禰津氏の支配下に入ったって感じですね。
じゃあ、やっぱり小保方さんのご先祖一族ってことなの?!
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